戦争の記憶(1945)

 

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1)昭和20年1月、軍命により急遽浜松市海老塚町へ移転した。父の勤め先は軍需工場だった。当時、浜松はすでに連日米軍の爆撃を受けて破壊され、毎日空襲警報や警戒警報に戦々恐々としていた。爆弾が近くに落ちる時は、ザラザラという音がすると聞いたが、幸いそれを聞いた記憶はない。近くには、運悪く、家もろとも一家が吹っ飛ばされたところもあり、切れた片腕が木にぶら下がっていたと聞いたと母が話してくれた。私は小学一年生だったが、学校は完全に破壊されていて、窓ガラスが飴のように熔けていたのを覚えている。どこへも遊びにも行けず、毎日、庭にあった防空壕で、安置されてあった観音像に向かい、爆弾が落ちませんようにと家族みんなで祈っていた。浜松に一体何日いたのだろう、間も無く父の勤める軍需工場も爆撃で役立たずとなり、この町に住んでいるのさえ危険な状況になった。軍も行政機関も、工場に勤める人たちの軍務を解いたのだろうと思う。急遽磐田郡福田町に避難移住した。どうやってこの地と貸家を見つけたのは全くわからない。行政機関が世話をしてくれたのだろうか。

2)艦砲射撃の夜多分1月末か2月末には、もう、福田町に移住していた。ここは遠州灘に臨む小さな町で軍需工場はなく爆撃の恐れはなかった。しかし、それでも戦争中だったから、私は近くにできた臨時の教室に防空頭巾を被って通ったし、兄は学校へ行く代わりに磐田市の機械工場で働いていたそうだ。また、家にいる時は、彼は布団をたくさん積んだ部屋に寝ていた。こうしておけば機銃掃射があっても大丈夫だと言っていた。私が一番怖かったのは、米軍による艦砲射撃の晩だった(記録では昭和20年7月29日)。母と一緒に寝ていた時、大きな音がして、目の前が真っ赤に光ったのだ。爆弾だ!母は、うちの庭に爆弾が落ちた、ここにいたら危ない!、と思った。布団と枕をだき抱え、私と姉を連れて外へ飛び出した。とにかくここを離れよう、海から離れたところへ逃げようと思ったのだ。なぜ枕を持ったのかはわからない。空には赤、青、黄の綺麗な色に輝く照明弾が、ゆらりゆらりと我が家を目指して(そう見えた)舞降りてきていた。その晩は、隣村の農家の防空壕に一晩泊めてもらい、翌朝帰って来た。うちは無事だった。あの時の艦砲射撃は浜松駅もターゲットの一つになっていたので、父母が優柔不断で駅近くの海老塚町に住み続けていたら、今頃我が家の家族は生きていないだろう。

3)8月15日の玉音放送は覚えていない。戦争が終わってしばらくすると、マッカーサー元帥の人となりを、説明してくれる人が派遣されてきて、みんなで校庭に並んで拝聴した。マッカーサーはMacArthurと綴り、スコットランドの系統であると聞いたのを今も覚えている。あとは何を話したかは忘れたが、この説明者は、余興に身体の色々な関節を外して見せてくれびっくりした。マッカーサーと言えば、パイプをくわえて飛行機から降りてくる姿が、今も目に焼き付いている。戦後の平和な日本にとって決して忘れられない人だ。